人が認識できる「善」をあまり持ち上げすぎないほうがいい
こちらの記事を読みました。(言及ばっかりしてしまってますがまあいいや)
この方はすごい方ですね。私は中学生のころなんて、なにも考えず終わったドラクエのレベル上げに一日を費やしてばかりだったような気がします。
それはさておき。
「善」という漢字はもともと、「羊」という字の左下と右下の空いたところに「言」という字が入ったものだったそうです。(⇒譱)
小さくてわかりにくいので拡大するとこんな感じ(漢字)。
羊
言 言
これはどういうことを意味しているかというと、ここでの「羊」というのは神聖な神に捧げられる生贄の羊であり、その神聖な羊の前で二人が言い合いをしていると。そして、そのやりとりを通して神に問い、神意にかなったほうが、「善」であるということだそうです。
つまりは、それぞれがそれぞれの「善」を主張し、言い争いをして、その末に「神意にかなったもの」が本当の善ということを表してもいるのでしょう。
ひとりの人間が「善」を語るとき、それは、羊の前で語るひとつの「言」でしかありません。
だとするならば、自分が「善」だと思うこと、それを自分はやっていくということで、それでいいのだと思います。そうしていくうえで、別のひとの違う「善」を突きつけられたときに、その意見を踏まえて自分がそのうえで「善」と思うことをまたやっていく。その連続しかないと思います。
それは宗教戦争などをはじめとして悲劇を生んでしまうこともあるでしょうけれど、結局人間には、「それしかない」のです。(自分の「善」は絶対のものではないという認識を常にもっておくことはとても大事だと思いますが。)
言及させてもらった記事の最後にも、「要約すると神様助けてってことです。」と締められていますが、本当の善なんて神様にしかわからない、人間にはわかりえないものなのだから。
※この記事で私が述べたことは、こちらの本に書かれていたことを元にしています。