どんどん間違っていこう
いぬじんさんのこちらの記事を読んで、つい先日はてブで大きく上がっていた、ちきりんさんの記事を思い出しました。
どちらも大きく評判になっていたので、はてブ界隈をいつも見ている方なら両方の記事ともご存知の方が多いだろうと思います。
いぬじんさんが、僕らは全員間違っている、ということを仰っていました。自分が「これが正しい」と思ってそのことを表明したところで、何かしらのバッシングは受けうる。そこに間違いがあるからです。そして、バッシングをしたその相手の意見にも、間違いはある。そうやって、間違いと間違いが組み合わさっていくことによって、また新しい間違いが生まれる。それらひとつひとつの意見はすべて間違いを内包してはいるのだけれど、それぞれに尊い意見なわけです。
私は以前に「善」についての記事を書いていて(⇒人が認識できる「善」をあまり持ち上げすぎないほうがいい)、「善」という漢字の由来から、ひとりひとりが語る「善」は羊の前で語るひとつの「言」でしかなく、本当の善なんて神様にしかわからないもの、という話をしたのですが、ここでもまったく同じことが言えるかと思います。
ひとりの人間が語る「善」は、いずれにせよただのひとつの「言」でしかない。
ここで、ちきりんさんの記事の主張に触れてみたいのです。
「AともいえるがBともいえる」ということは、おそらくより真実に近いんです。「Aだ!」と言い切ったり、「Bだ!」と言ってしまうことよりも、より真実に近いところを射ている。
でもそんな真実は、ちきりんさんが書いている通りなんの役にも立たないし、なんの面白いこともありません。
「AともいえるがBともいえる」なんてのは、はじめからわかっていることで、そのうえで「こうこうこういう理由でもって、Aに賭ける! だからAだ!」というような意見を言わないのであれば、なにも言わないのと変わりありません。というかその通りなにも言わないでいてくれたらまだいいのですが、「AともいえるがBともいえる」なんていうそんなはじめからわかっていて、言っても何にもならないことを根拠にして潰しにきて、さも自分はよりわかってるのだというような顔をしていたりする。
間違いを当然の前提として、どんどん自分の"価値のある意見"を言ってみないことには、新しい何かは生まれません。はじめからわかり切ったことをただ言うだけの意見に、果たして価値があるでしょうか。
間違った意見をどんどん言ってみればいい。どんどん楽しめばいい。(ただし、むやみに個人を傷つけたりはしないという配慮はあるべきだと思います。以前どれかの記事にも書きましたが、ぶん殴るような方法でしか異議は唱えられないなんてことはないのだから。)
人間なのだから間違いは当然にあるもの。神様でもないのに自分は本当の善を見定められるかのようにふるまおうとしているほうが、何の役にも立たないし、よっぽど滑稽です。