あらゆる場所に光は充ちている
masahusaさんのこちらの記事を読んで、はじめはコメントしようと思ってたんですが長くなってしまいそうになって、それならいっそ記事として書くことにしました。
最先端の科学での新発見について触れられていて、そのことについてどう要約したらいいのやら私の知識ではとてもおぼつかないので、もしまだの方はぜひmasahusaさんの記事のほうをご覧になるようお願いします。
私は科学についてまったくのド素人なので、その発見された現象が「つまりどういうことなのか」というのはよくわからなかったのですが、「選択されなかったルートにも光子は通過している」というような話から、例えば「私が今朝にでもmasahusaさんの家のドアをノックしていた」というのも「ある意味本当にあった」ことなのかも、とか考えてしまいました。
つまりは、「パラレルワールドの存在を裏付けるもの」とでもいうのか。あるいは「あらゆる”可能性”について裏から支えている存在」とでもいうのか。
科学のド素人の私がそれらを想起しただけで、まったくの見当はずれのことを言っているだけとは思いますが^^;
で、そんなようなことをあれこれ考えているうちに、光の性質の話をちょっと思い出したんですよね。(光子と光とはまたぜんぜん別のものなのかもしれませんけど。)
光って、じつはそれ自体は目に見えないんですよね。明るいのが光なんだから目に見えてるだろうと思ってしまいますが、光は照らされる対象がそこにあって、はじめてその存在を感じることができる。
懐中電灯から光のビームが伸びるように見えるのも、それは光が空気やらホコリやらを照らしているからであって、真空状態の暗い箱の中で懐中電灯を照らしても、光のビームは見えません。
宇宙は真っ暗な空間ですが、それは大気含む物質がないからそう見えるだけで、じつは光に充ちています。
数学や物理法則が、この世のあらゆる現象の裏側に存在し、そのルールでこの世を成り立たせ機能させていますよね。
ならば、「選択されなかったルートにも光子は通過している」という物理現象が、この世における私達の「可能性」の存在を裏から支えている(それは言い過ぎなら、「可能性」の存在を証明している)というのもあながちないことでもないんじゃないかとか思ってしまいます。
そして、同じように物理現象を身近な現世に当てはめてみるなら、自分は真っ暗な絶望のどん底にいると思っていても本当は光に充ちているということも、単なる比喩のようなものだけじゃないものとして、言えるんじゃないかとか思います。
ま、科学のド素人が勝手に言ってることなんで…。