スケジューリングはアートである(前編)
2013/09/10に書いたやつ
~完璧を求めて0から進まないよりも、いま不完全な一歩を繰り出し続けることのほうが遥かに意味を成す~
どうせ何かをはじめるのならば、十分に自分が納得のいく手段や時を得られてからはじめたいと考えてしまいがちですね。
受験勉強に取り組むまえに、勉強法の本ばっかり読んだりとか。今日はちょっと気がのらないから明日からはじめよう、とか。
明日からやるぞ→来週からやるぞ→来月からやるぞ→来年かr
そうしていつまでたってもはじめられず、貴重な時間が失われていく。
だいたい、何か事を行おうというのにあたって、時間ほど重要なものはないことを忘れてはいけません。
でも忘れちゃう。
納得のいく手段、時?
そもそも、納得のいく手段というものは、はじめてから事を進めながら、その中でこそ得られるものなんですよね。
はじめる前にあれこれ考えるだけで最善の手段を見い出そうとするよりも、実際にやってみた上でもっとこうしたほうがいいとかに気づくことのほうが、明らかに効率的なはずです。
やってみる前に求めるのではなく、進みながら求める。進んでこそぶつかる問題というのも必ずあるはずです。
やってみることに金銭的コストが掛かるのならば熟考の余地もあるかもしれませんが、それもないのに「まずやってみ『ない』」なんていうのは、馬鹿げたことのはずなのです。
そして、納得のいく時なんていうのは、自分の都合のいい思い込みでしかありません。
そんなものがあるかのような根拠ない想定をして、いまこの時の実行を先延ばしにしたいだけのことです。
いつやるの? 今でしょ(ドヤァ)
たしかに、「どうしても気が乗らない」というような時がないこともないかもしれません。
しかし、そういう甘えを許せば許すほど、甘えに切りがなくなっていきます。
「どうしても気が乗らないというほどでもないけど、今日もいいや」という風になっていきます。
スケジューリングの重要性
女のひとって手帳にカラフルな文字でいっぱい書いてるイメージがありますが、特に男性の場合、仕事で必要ということでもないかぎり、あまりスケジュール管理をしないのではないかと思います。ライフハック大好きみたいなひとは別にしてね。
でも、ほっといても自分がやるような行動ならともかく、そうでないことで何かを成そうと思ったならば、自分の感情だのやる気だのというものを一切無視した機械的取り組みでもって事にあたる姿勢というのは、どうしても必要になります。
そのためには、スケジュールを組み、それに基づいた行動を取るということが必要なのです。
寝る間も惜しんで一刻一秒も惜しんで一日18時間やるべき事だけをやる、という毎日を送れるのならば、何も言うことはないでしょう。
しかし、現実的にそれはあまりにも苦しいのであれば、「これぐらいならば自分にできそうだ(できないわけがない)」というスケジュールをあらかじめ決めておき、決めたそれについては何が何でもやるというようにすること。
そういうルールをしっかりと持っていない限り、易きを好み心はうつろう“フツウの人間”である以上、その目標はいつの間にかうやむやになって、遠からずフェードアウトします。
「何かを成すためにはスケジュールを組んでそれをその通り何が何でもやること」というのは、ありきたりな話に聞こえるかもしれません。
しかし大事なことは、それをきっちり遂行する以外に事を成せる方法はないのだということをはっきり悟ることです。それ以外にはないのです。
続きは次回。