仕事のやりがいはおまけかもしれないけどグリコのおまけみたいな存在
※2013/10/08に書いてたやつ、半額セールの関係があるんで先に出しておこうw
私がちょくちょく見てるブログのひとつ、脱社畜ブログの書き手さんが出してた本が、昨日からkindle版なら半額になってて(2013/10/21までらしい)、思わずポチってしまいました。
定価では買わなくてすみません。
昨日ポチって昨日のうちにさっそくぜんぶ読んだんですけど、第2章に『「やりがい」は仕事の本質とは違う』という見出しの一節がありました。
その中に、太字で記述されているのが以下です。
↓ここから引用
労働者は、会社に対して労務を提供する。それに対して、会社は給料を払う。どこかの会社に就職するということは、その会社と個人との間でそういう契約を結ぶということだ。この関係から全てが出発する。ほかのことはおまけにすぎない。
↑ここまで引用
前に私、こういう記事を書いていたので(⇒仕事と幸せ、そして企業の役割)、やりがい」という言葉に反応したんですよね。
企業が競争を前提として存在するものである以上、そこで働く人たちの負担がどんどん重くなっていくことはごく当然に引き起こされる流れなわけで、その負担から生じる苦痛を軽減させるためには仕事に対して「やりがい」を持てることだよな、みたいな内容を書いておりました。
著者自身も、べつにやりがいをどうでもいいものと思っているわけではなくて、「やりがいがあろうがなかろうが働きに見合っただけの賃金はちゃんと与えられなければならない」「やりがいを建前にしての不当な賃金での労使の関係がまかり通っていいはずがない」ということを仰っているわけです。
ただそれにしても、はたして仕事の「やりがい」は、単なるおまけのひとつとして軽んじることができる程度のものなのだろうか?と思ったわけです。
おまけはおまけでも
たとえ連日一日中働くハメになっていたとしても、自分が経営者なのであればそれはぜんぜん苦痛ではないですよね。
きっと、社畜的労働環境それ自体が問題なのではなくて、そこに過剰なまでの苦痛が伴う(とくに一般従業員レベルの場合)ことが問題だと思うのですけれども、だとすればそれをなんとかするために取るべきアプローチは2つあることになります。
・社畜的労働環境そのものを解消する
・社畜的労働環境の苦痛を解消する
社畜的労働環境そのものを解消しようとした場合、企業の競争力が削がれるということが起こってきます。
それはまた、一律に規制できる国内だけの問題でもありません。
「真っ当な労働環境」であるべきということはみんながわかっているにも関わらず、ちゃんと守らないと問答無用でしょっぴくという風にならないのは、それをしてしまうと社会がとんでもないことになるともわかっているからでしょうね。
これまで10の力で何とか立ち行っていたものを急に減らせと言われても、とても立ち行かない。
だから、ちゃんと声を上げた人にだけ対処をするようにしている。まあ国の行政はぜんぶそうですね。
声を上げずに我慢してくれている人がいるからこそ何とか立ち行っているシステムというのは、それが良い悪いはひとまず置いといて、間違いなくあるわけです。
それに対して、社畜的労働環境の苦痛だけを解消することが出来たならば、会社にとっても本人にとってもメリットがあります。
誰しも、自分が本当にやりたくて仕方がないことならば寝る間も惜しんでやるということが起こりますよね。その感情を仕事に対して持つことが出来たならば、そこには大きな充実感があると思います。(ゲームを寝る間も惜しんでやっても、正味の充実感は得られない)
その鍵は、仕事への「やりがい」に他なりません。
自分の労働を対価として払いお金を得るために働くことは間違いない事実ですが、かといって賃金額や労働時間だけで仕事を選ぶ人はまずいないわけです。(そういう選び方をする人は、「そもそも選べない」中からちょっとでもマシなのを選ぶという、”条件付き”でのことだと思います)
ただお金を稼ぐだけならどんな仕事でだって稼げるわけですけども、人々は仕事を選びます。そこではほとんどの場合、「やりがい」が求められているに違いありません。
つまり、やりがいはおまけだとしても、きっとグリコのおまけぐらい重みがあるおまけなのではないでしょうか。
やりがいがあれば仕事は楽しくなり、苦痛が苦痛でなくなる。そうして仕事のパフォーマンスも向上し、すべてに良い結果がもたらされるわけです。(仕事に没頭しすぎて家族が犠牲になるというのは問題ですが)
ただし、そうやって社員が会社にもたらした価値をいうのは、もちろんきちんと還元されなければなりませんけどね。
あるべき会社のカタチとは?
日本にこれだけ素晴らしいモノやサービスが溢れ、国際的にも最上級とも言える仕事の質の高さを保てているのは、社畜のように働くことを(内心はともかく)非としない人々の賜物とも言えるでしょう。
そのことが手放しに良いことだとは決して言えないわけで、劣悪な労働条件の是正というのは行われてしかるべきなんですけども、労働環境への一律規制によって日本の価値の高い仕事が凡庸なものに成り下がってしまうならば、それもどうなんだ…?という感慨は残るのではないでしょうか。
しかしそもそもなにより、やりがいやりがいと言うけれども、事業主・経営者ならともかく一般従業員レベルの人たちがそこまでのやりがいを仕事に対して持ち得るか?という大きな問題があるわけです。
メディアに出たりや他所のお偉いさんとの会食が仕事で給料ガッポリのやつらと、刺身にひたすらタンポポをのせるのが仕事で給料なけなしのやつら(たとえです)とが同じモチベーションを持てるわけがない。
経営者と従業員、使う者と使われる者というふうにはっきり分けられることが当たり前の、既存の会社のカタチというもの自体を根本から変えていく必要があるのかもしれませんね。
まあその辺のことはまたおいおい機会があれば考えてみたいと思います。
あるいはもっと頭のいい人がしっかり考えてください。