仕事と幸せ、そして企業の役割
※2013/09/03に書いたやつ
あなたはいま、幸せですか?
経済的にはあまり裕福ではないブータンが、幸せの国と呼ばれているのはわりと有名ですね。(一時期、ブータンの幸福度が異常に高い数値だったのには、統計方法にもカラクリがあったようですけど)
それに対して、文明においては先進国である日本の国民が幸せとはぜんぜん程遠いことは、世相を通して誰しもが感じているところかと思います。
文明が発達するということは、モノやサービスがどんどん良くなっていくということですね。世の中はどんどん便利になって、どんどん快適になっていく。
でも、幸せにはなっていない。それどころか、むしろ不幸せのほうに進んでいる感さえある。なぜでしょうね?
ひとつは、「慣れ」ということもあるでしょう。
蛇口をひねりさえすればいくらでもきれいな水が得られるなんてことは、アフリカのほうにでも行けば、とんでもなく幸せなことだろうと思います。でも、日本ではそれは「当たり前」のことであって、それに幸せを感じられる人なんて、なにか特別な体験をした人ででもないかぎり、ありえないでしょう。
慣れによって、「幸せ」は「当たり前」になってしまう。
しかしもうひとつ、モノやサービスの発達とともに、もっと能動的に不幸せのほうを促進させている要因があるのではないかと思っています。
もらうだけならいいけれど
年金生活者だとか、宝くじを一発当てた人だとか、終身雇用の自宅警備員だとか世の中にはいろいろと例外もありますが、世の中のほとんどの人は働かなければなりません。
ほとんどの人が、その文明の発達によってどんどん良くなっていくモノやサービスを受ける側であると同時に、仕事として提供しなければならない側でもあるわけです。
つまりそれは、モノやサービスがよくなっていくことを裏返せば、自分が提供しなければならない仕事がどんどんキツくなっていくということに他なりません。
店で牛丼を食べるのに300円でおつりがくるなどというのは、そのサービスを受ける側にとっては至れり尽くせりの感がありますけども、世の中全体で見ればやはりどこかしらに歪みを生んでいる気がします。残業代未払い問題とかありましたよね。
企業間の競争は、消費者にとっては良いことだと言われます。よりサービスのよいほうに消費者は集まることになりますから、企業はイヤでも企業努力をしなければならなくなる。牛丼の値段もイヤでも下げなきゃならず、そうやって企業同士競争してくれることで、消費者はどんどん得になるわけです。
でも、もっと世の中全体を見る視点で見れば、「企業=消費者」なんですよね。
世の中のほとんどの人は、消費者であると同時に、企業の働き手でもある(個人事業も含めて)。
消費者としてはラクになっていっても、自分は牛丼屋で働いてるわけではないにせよ、自分がかかわるなんかしらの仕事においての働き手として、どんどんキツくなっていくはずなんです。(もちろん例外はあるでしょう、あくまで総体として)
そして、仕事が人生というものに占めているウェイトというのはあまりにも重い。結果として、トータルの幸福度としてはマイナスにしかなっていないのではないか。
みんなが溺れる寸前でアップアップしながら、かと言って力を抜くわけにもいかず、さらにどんどん苦しくなる方向へ進んでいく流れを止めることも出来ない。
モノやサービスの発達なんて、幸福の観点から見ればただそれだけのことな気さえしなくもありません。
ブラックでもいい、やりがいさえあれば
世の中にはブラック企業なんてものが増えて、ただまともに働くことさえにもヒーヒー言わなきゃならないようになっていますね。
ブラックにもいろんな定義があるので一概には言えませんが、いま述べてきたことを踏まえれば、仕事の質、量や賃金の面では、企業がどんどんブラック化していくことはある種避けられないこととも考えられます。
そうやって、仕事がどんどんキツくなっていこうとも、そのことが出来るだけ幸福度を損なわないためには、仕事にたいして「やりがい」をもっていなければなりません。
そう考えると、企業に求められることというのは、消費者に「より良いモノやサービス」を提供することだけではないでしょうね。
世の中のほとんどの人たちが「消費者=働き手」であり、その幸福ということを真の目的とするならば、消費者にたいして「より良いモノやサービス」を提供し、働き手にたいして「より良いやりがい」を提供すること。
この両輪を備えてこそ、本当に社会にとって必要な企業となり得るのではないかと思います。